無結節網
先発6社の一つとして
市駒製網創業者・市川勇夫は、当初機屋として創業したもののうまくゆかず撚糸業に転身。再び行き詰まった頃に無結節網の編網機に出会います。時は昭和30年代半ば、まだ全く普及していなかった無結節網とその製造技術に「これだ!」と閃いた勇夫は、図面を手に入れ地元の鉄工所等と協力して改良型を開発。昭和36年に無結節網の製造販売に乗り出します。社名には尊敬する実父・駒蔵から一文字頂戴し、同時期に操業を開始した無結節網の製造元として、「先発6社」の一つに名を連ねることになりました。
網元となり
漁場を見つめる
生まれつき目新しいことに興味が向きやすい勇夫はその後、各所から網元業の盛況を聞きつけ、製網が軌道に乗りきってもない昭和38年、並行して、縁のあった三重で定置網(大敷網)の網元業に着手。漁の対象魚は「鰤」で、1回で4500万円もの浜値がついたこともあったといいます。漁で使うのはもちろん自社の無結節網。勇夫は現地の漁師たちと話し合い、改良点を探すことに没頭します。少しでも良い網、多少のことでは切れない丈夫な網、「とにかくいい網、これからの網を作る」ということに夢中でした。
突然の世代交代を
乗り越えて
やがて現会長・勇三が事業の手伝いをするようになると、開発者肌の勇夫が不得手だった社内・社外の折衝業務を勇三が担当、その功労により製網業・網元業とも順調に拡大しました。ところが、製網で40人、漁業では2港で60人の従業員を抱えるまでになった昭和55年、病により勇夫が急逝。勇三は弱冠34歳で社長に就任します。漁場や営業先でここまで揉まれてきた勇三に迷いは皆無。勇夫の「良い網、丈夫な網を作る」という意志を忠実に受け継ぎ、機械の微調整や丁寧な検品にさらに磨きをかけていきました。
B品は
絶対に売るな
元号が平成が変わり世の中がバブルに沸いても、良い網だけを提供するという方針は変わりませんでした。厳しい検品によって弾かれた不良品が次第に倉庫にたまっていく中、ある時「これをB品として安く売ってはどうか」という意見が社内に湧きました。しかし、勇三は首を横に振るばかり。曰く「漁に出るというのはすごい金のかかることなんだ。B品で漁に出ていざというときに網に穴でも開いたらものすごい大損害だ」。網屋として、網元として、常に漁場と漁師の暮らしを第一に考える勇三がそこにいました。
漁網と防球網
両輪の確立
幸いバブル崩壊やリーマンショックによる影響はほぼなかったものの、一方で日本各地の漁獲量は陰りを見せ始め、漁業人口も減り続けていきました。海水温の上昇が原因なのか、所有する定置網にかかる鰤も格段に減少。平成18年にはついに漁業権を手放し、網元業から手を引くことになりました。市駒製網にとっては厳しい時代の幕開けでしたが、その後平成の終わりにかけ、幸運なことにドーム建設など世界的に陸上網の需要が拡大。陸上網・防球網の外注を請け、国内外のニーズを満たすことで、窮地を逃れました。
市駒製網新時代の
幕明け
高い製網技術から、現在では同業からの信頼も厚い市駒製網。最先端素材を使った特級難度の試作依頼が製造委託に繋がることも多く、一方でSDGs的には再生素材の活用も課題と捉えています。そんな中、令和5年8月、平成20年より後継教育を受けてきた絢子に社長のバトンが渡されました。産業心理学を修めた絢子は学びを組織づくりに活用し、ここまでに従業員の満足度や定着率の向上を実現。同時に勇三長男・紘基は編網機の保全会社として独立、変わらぬ市駒クオリティを保証します。新時代の市駒製網がいま、ここから始まろうとしています。